|
|
|
■白間津の大祭■ |
|
 |
|
ササラ踊りの輪
2007年7月27日から三日間、南房総市千倉地区白間津の日枝神社に伝わる4年に一回の「白間津の大祭(しらまづのおおまち)」が開催された。ここは房総半島の南端に近く、黒潮の影響で気候が温暖なため、稲の裏作の露地花栽培と観光向けの花摘みで有名なところである。海では海士・海女による磯根漁(アワビ、サザエなど)とエビ網によるイセエビ漁も盛んで、典型的な半農半漁の集落である。
日枝神社は醍醐天皇の延喜元年(901年)、岩戸大納言吉勝の創建と伝えられている。
伝承によれば、この地区の開拓に従事した田仲八軒が、開拓の成功を祝い、故国(京都との説が有力)から大山咋命の神霊を迎え奉祠した。そのときの儀式を長く伝え、その神威を慰労するために旧暦の6月15日に大祭を定めたという。他に田仲一族が幟(のぼり)を持って海から神を迎えたのが、大祭の始まりとの伝承もある。
神社の隣にある別当寺の円正寺に古い記録が残っていたが、江戸期の津波ですべて失われ、前述の内容は口承によるものである。
この祭の主な行事は「ササラ踊り」などの奉納舞、海岸に設けた仮宮に神を送る「お浜下り」、高さ約15メートルの大幟に綱をつけて引っ張る「オオナワタシ」である。
|
 |
オオナワタシ遠望
二百戸足らずの小さな集落の住民は、ほぼ全員参加とのことで、男女の性別、年齢で祭礼における役割が決まっている。祭装束が華美で費用が掛かるために、江戸時代は5年に一回、現在は4年ごとに開催されている。
古くからの慣わしがかなり正確に残っていて、民俗学的にも中世から近世にかけての祭の歴史を知る上で、貴重な存在と言われており、平成4年には国の重要無形民俗文化財に指定された。
日程は初日を宵祭(よいまち)、二日目を本祭(ほんまち)、三日目を後祭(あとまち)と呼び、子供たちの学校や大人たちの仕事を考慮して、夏休み初期の土曜、日曜を含めた三日間に、現在は設定しているとのことである。
日天・月天とも呼ばれる「仲立」は神としての待遇を受ける祭礼の中心的な存在で、少年二人がこの役を担っている。この役の選定の基準は厳しく、長男であり、両親が健在、家にある程度の財力がある、世話のできる老人がいる、さらに小学校六年生であることも条件である。しかし少子化が進んで、今回はついに五年生が選ばれた。
選ばれた少年二人には、厳しい精進潔斎の努めが課せられ、祭の五十日前から穢れをさけるために、身の回りの世話は老人(祖母)に限られ、食事も家族とは別火で調理したものをとる。毎早暁に家で灯明をあげた後、裸足で海辺へ行き、浜砂を採取して、日枝神社の拝殿に供える。
大祭の当日、二人は赤熊(しゃぐま)という赤く染めた麻の毛を頭にかぶり、小ぶりの太鼓を腹に括りつけ、丸い板に金紙を張った日天、銀紙の月天を頂部につけた十字架様の棒を背負う。装束は揃いの浴衣に黄色の帯、色鮮やかな刺繍をした前垂れ、コバルトブルーの襷、手甲、脚絆を着け、白足袋に草履を履く。祭礼では仲立は奉納される踊りの中心となり、神としてさまざまな役割を担う。 |
 |
日天と月天
神社、仮宮に踊りを奉納する際、行列を作って振り込んで行くのが、白間津踊りの特徴で、その行列の露払い役が高校、中学生の女子が舞うトヒイライである。少女たちは頭に鉢巻、揃いの浴衣と前垂れ、黄色の襷、赤の手甲、脚絆に白足袋、手にトヒイライ棒を持ち、腰をかがめて地を押し払うような動作を繰り返してゆく。 |
 |
トヒイライ
次いで中、小学生の男子が舞うエンヤボウが来る。少年たちは顔に墨でひげを描き、装束はトヒイライと同様だが、襷、手甲、脚絆の色が青で、白足袋にわらじ履きである。エンヤボウはトヒイライが露払いした神の道から魔物を退散させる役と言われ、先頭の二人は片鎌槍をその他は薙刀を持って地を振り払うように踊る。 |
|
 |
エンヤボウ
次いで小学校六年生以下の少女たちが受け持つササラが来る。祭礼のなかで最も重要視される大変愛らしい奉納踊りで、神社と仮宮で日天・月天を中心にした輪を作り、やはり輪の中の筵に座った十二人の「唄うたい」の唄にあわせてゆったりと踊る。
装束は花笠をかぶり、揃いの浴衣に帯は黄、赤などとりどり、ピンク色のしごきをつけ、白足袋に赤の鼻緒の草履を履く。
|
 |
ササラ踊りの少女
ササラ踊りは全部で十二曲もあり、祭事の種類により踊り分ける。ササラは三十センチほどの竹の先端を二十八本に割ったもので、これを三十六の山形に刻んだ棒にこすりながら踊る。手にする他の小道具に綾棒、扇があり、踊る場も地に直接輪を作るのと、同じ位置に敷いた茣蓙の上とがある。土地の古老が務める「唄うたい」は浴衣に黒の夏羽織を重ね、中折帽をかぶり、前に唄の台本を置く。 |
 |
ササラと日天月天
日天・月天は輪の中心で太鼓を叩きながら跳ねるように踊る。少女たちと比べると運動量が多く、一曲終るごとに床几が出され、付添いの祖母たちが団扇であおいでいた。
芸能的な側面から見るとササラ踊りは中近世の猿楽を基礎に置いた踊りで、念仏踊り、小唄踊りの流れをくみ、上方文化の影響を色濃く受けていると言われる。
|
 |
日天月天の舞
長さ約三メートルの十字に組んだ角材の上部に、四斗樽二つをくくりつけた酒樽萬燈の八基が行列の最後尾につく。踊りの少年少女たちに対して、勇壮な萬燈振りは青壮年男子の担当である。取っ手は付いているが、重量が四十キロもあり、重心が高いので振るといっても大変で、男たちの力の見せ所である。 |
 |
酒樽万燈
初日の宵祭は午後三時半から前述の一連の舞と萬燈振りが行われた。これだけの祭に他所からの見学者が少ないのは寂しい気がしたが、その分じっくりと見ることができ、写真もたくさん撮った。4年ぶりに見たが、ササラを踊る少女が少なくなり、列の先頭に中学生、終わりには幼稚園児を動員しても、円陣を組んで踊る輪がなかなかつながらず、少子化が一段と進んでいることを如実に示していた。12年前の写真には一枚の筵に二人の少女がいたが、今回は一人になって半減したことになる。
本祭は午前十時半にお浜下りが行われたが、土曜日のため大勢の見学者、カメラマンでいつも閑散としている地区の道路は大変な賑わいを見せた。浜の仮宮を目指して、面を着けた猿田彦を先頭にトヒイライ、エンヤボウ、仲立、ササラ、大榊、五色旗、巫女、伶人、囃子方、神輿、神官、関係者、最後に酒樽萬燈が真夏の日盛りに列を作って下った。全体に厳かな雰囲気で、伝統のある神事の重みを感じさせた。 |
 |
 |
お浜下りの出発
お浜下りのササラ
午後三時半に浜の道路でオオナワタシ(大縄渡し)が行われた。太い綱で神の依代である大幟二本を引く祭事で、本来参加できるのは十八歳以上の男子である。しかし地元の人口が減って数百メートルを引くのは容易ではなく、訪れた見学者にも引いてくださいとのことで、引き手は地元の人と来訪者の半々くらいの構成になった。
長さ約15メートルの太い杉の丸太に日枝神社御神前と大書した幟をつけ、頂部には日天、月天の象徴を、その下に竹を輪にしてカサマクと呼ばれる赤い木綿布を周囲に垂らすように取り付けてある。 |
 |
大幟
この二本の大幟を仮宮目指して引く。幟の根元は二十俵ほどの土俵で固め、丸太で枠を組んであるが、車の付いた山車のように引く構造にはなっていない。それを丸太上部から八方に張ったロープでバランスを取りながら、根元に取り付けた大綱で力いっぱい引く大変珍しい、雄大な祭事である。皆が力にまかせて引くために、途中でバランスがくずれて倒れることがあるが、すぐに引き起こされて続けられた。昔は倒れ方でその年の天候を占ったとのことである。 |
 |
オオナワタシ
三日目の後祭は午前にお浜下りと同じ行列を組んで御神体(神輿)を神社へ還御し、午後には初日同様の踊りが振り込まれて祭のすべてが終った。
安房の祭の多くは神輿かつぎと山車曳きである。「かっこ舞」など神楽の舞も伝わっているが、規模が大きく、盛んなものはないように思う。
白間津大祭はこれまでに見てきた安房の祭とは異質であるが、独特の内容が長期間に渡ってしっかりと伝承され、しかも地区の人たちの総出で行われているのに感動した。少子化が進むなかで、この祭の伝承が今後もしっかり行われることを願う。 |
|
|
TOP |