| 安房の戦争遺跡 |
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写真 館山市街と海自基地(館山海軍航空隊跡)
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要塞地帯
終戦時この館山に七万の将兵ゐしとぞ決戦に備へ
湾の口を要塞地帯に指定して施設は民に隠し通しき
軍縮に廃しし艦の巨砲(おほづつ)を密かに据ゑゐき海原へ向け
弾薬庫の口に迷彩なほ残る周りの草木に色を合はせて
米軍の爆破に壁も天井も崩れず地下の弾薬庫残る
漏れ水がコンクリートを浸食し鍾乳石を弾薬庫に生みき
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| 写真 洲崎第二砲台の弾薬庫 |
赤山地下壕
迷路への恐怖抱いて蹤きゆけり手明り頼りに地下壕の奥
地下壕の闇に馴れきて壁面を斜めに走る地層を認む
ツルハシの穿ちしあとがはつきりと凝灰岩の壕壁に残る
戦時下に朝鮮の民幾人を動員かけしかこの地下壕は
奥まって戦闘指揮所の小さき窟モルタル仕上げがしかと残れり
アスファルトの下地むき出すひとところ防水凝らしし奉安殿なり
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| 写真 赤山地下壕の入口 |
戦闘機用掩体壕
敵機より零戦隠しし掩体壕 土砂が侵すも大き口開く
空からの姿を巧みに隠しあり掩体壕は段丘の端に
六十年余り経たるに強固なり掩体壕のコンクリート壁
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| 写真 戦闘機用掩体壕 |
洲ノ埼航空隊射撃場跡
一万余の若者集め戦中に飛行機整備を教へ鍛へき
両翼の機銃整へ百メートル先にて弾を交差せしめき
標的の壁に食ひこみ弾残る戦闘機銃の射撃場跡
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| 写真 洲ノ空射撃場跡 |
米占領軍の上陸地点
三千余の米軍ここに上がり来し 昭和二十年九月三日朝
海軍の水上飛行機降ろしたるなだりに寄せ来し米軍舟艇
米軍の上陸せし地に揺れてゐる浜大根の紫の花
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| 写真 米軍上陸地 |
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館山海軍砲術学校
戦時下に強ひて農地を収用し海軍砲術学校設けき
米国の海兵隊模し海軍は特殊部隊の育成急ぎき
入校後三科に分かれ学びゐき陸戦・対空・化学兵器ぞ
出陣の学徒鍛へて半年で海軍少尉に任官させたり
毒ガスと細菌兵器の扱ひに理工科生を多く配しき
落下傘部隊の肝を鍛へゐし巨きプールを荒草が囲む
高所より飛び込み恐怖を去らしむる飛行特技の訓練池なりき
赤レンガの壁のみ残る釜場跡一万余人の飯を炊きたり
毒ガスの研究棟がありし地は草茂るまま塀で囲はる
毒ガスを格納せしか畑隅に残る小庫の頑丈な造り
毒ガスと細菌戦の訓練地 跡に南房パラダイス建つ
戦車路に架けゐし橋は頑強で六十年後も異常なく使ふ
戦ひに一万数千死なしめて砲術学校水田に還る
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| 写真 館山海軍砲術学校跡 |
館砲跡のガイド
若き日に仕へし人を誘ひて砲術学校の跡地をめぐる
戦時下に高商卒を半年で主計士官に速成せしとぞ
二十五歳の主計中尉で館山の砲術学校に赴任せしとふ
六百人の主計組織で支へたり砲術学校の一万余人を
鎮守府との連絡役を務めゐき副官付きの若き中尉は
ご真影を移ししさまを語りつつ残れる壕の口を指したり
夜光虫異常に殖えて鎮守府を揺るがしし真夜 敵艦来しと
決戦の迫りてもはや時のなく閉鎖せしとぞ砲術学校
一人にて機密書すべて焼きしとふ降伏まぢかの暑かりし日に
終戦時海軍大尉と幼なりき 館砲跡の青田を望む
野村義雄さんには、会社で大変お世話になったが、氏は神戸高商卒業後に海軍経理学校の短期現役制度(短現)を終えて、館砲に主計中尉で任官された。昭和十九年十月のことで、以来館砲の撤収まで見届けられた。
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| 写真 館砲演習場跡 |
大房岬
海食の崖に多様な縞を見せ西日に輝く大房(たいぶさ)岬
黒船に備へ築きし砲台は土塁わづかに残しゐるのみ
軍縮に廃しし「鞍馬」の砲塔を岬に据ゑて要塞設けき
湾の口へ巨砲(おほづつ)向けて大房は首都防衛の一翼担ひき
カノン砲二門据ゑゐし基礎の上に花壇作るも雑草茂る
弾薬庫の口を太き根抱へをり偽装の植樹の土が流れて
砲台の観測指揮所のありし地は樹木茂りて海原見えず
九キロの範囲を射しし探照灯昇降式にて地下に隠しき
ドイツ製の探照灯は光源に炭素の棒をアークで燃やしき
要塞の実の姿を知らぬまま岬に遊びし少年の日に
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| 写真 大房岬弾薬庫跡 |
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特攻機「桜花」
この安房に密かに建設進めゐき本土決戦の抵抗拠点を
特攻機「桜花」の発射を企てしレールの基礎が畑中に残る
射出軌条(カタパルト)のコンクリートは風化して「桜花」伝説六十年経ぬ
八百キロの爆薬積んで「桜花」発ち十分足らずの飛行なりしとぞ
敵艦をめざす「桜花」の乗員に少年兵の多かりしとふ
発射基地の成るも「桜花」は間に合はず使ふことなく戦終りき
「桜花」用のレール剥がしし基礎孔に実生の柿が大きく育つ
地の人は基地の在りしを知らぬなり特攻「桜花」も榴弾砲も
写真 特攻機桜花発射台跡 |
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榴弾砲基地
尾根越しに千倉の海を狙ひゐき岩山削りし榴弾砲基地
山中の基地へ運びし砲弾は一発づつを牛に曳かせき
米軍が爆破せしとぞ榴弾砲 兵ら控へし壕のみ残る
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| 写真 砲側壕の内部 |
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従軍慰安婦の碑
冬空を突くごとく立つ黒き碑に只彫られあり「噫(ああ) 従軍慰安婦」
白々と冬の波敷く海望む「従軍慰安婦」のいしぶみの丘
深津牧師が元慰安婦の告白に魂鎮めむと碑を建てしとぞ
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| 写真 従軍慰安婦の碑 |
本土決戦の陣地
決戦の陣地築けと兵と民多くを集めき安房の山地に
千倉より和田浦にかけ設けゐき対米軍の水際拠点を
水際の背なる山地に穿ちゐし壕の多かり抵抗拠点ぞ
偽陣地を田畑のうちに築かせて意図は民らに全く伏せゐき
偽陣地を艦砲射撃の的にして抵抗拠点の温存図りき
決戦の壕を探しに山に入る倒木潜り夏草分けて
ゲリラ戦を意図して尾根のをちこちに一兵入り得る壕穿ちあり
決戦の壕や陣地は使はれず山の茂みにおほかた隠る
ツルハシの痕乱れゐて速成の地下壕の壁粗々しかり
壕の奥の台座に伏せて銃眼を覗けば野菜の畑広がる
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| 写真 抵抗拠点の壕 |
戦跡ガイド
一年に一万五千の人訪ひきこの館山の防空地下壕
職退いて三年故郷の館山に戦争遺跡のガイドを務む
戦跡に多くの生徒が訪ひ来たり平和学習の教材として
女子高の就学旅行に館山の戦跡を見るひと日が組まる
ヘルメットを厭(いと)ひざわめく女生徒を連れ戦跡の防空壕へ
壕内を怖がりつつも女生徒ら地層の縞に感嘆の声
生徒らの私語を制して壕内に奉安殿とは何かを語る
戦跡より田舎の井戸に興味もち女子高生らは記念に撮り合ふ
生徒らと掩体壕の口に立ち零戦隠しし様子を語る
戦跡のガイドをしつつ都会から移りし多くの知人を得たり
自歌自解
空襲のさなかなりけり幼年のわれ気のつけば母に縋りゐ
私の最も古い記憶は、太平洋戦争の末期に故郷の館山で遭遇した戦争に関わるいくつかの出来事の断片である。昭和二十年の春に四歳になった私の周りでは、張りつめた雰囲気で銃後の生活が行われていたようである。今目をつむって当時を回想しようとすると、戦時のあわただしいなかで幼い私が我に返ったような、あるいは気が付いたら戦争の真っ最中だったというような不思議な感覚をおぼえるのである。
ただでさえ薄暗い電燈、その笠に黒い布が掛けられて、不気味で不安な夜を過ごしていた。よれよれの軍服を着た小父さんが、自転車で表の通りを走りながら、メガホンを使って「東部軍情報」を連呼し、空襲を予告するのを何回も見た。
館山の海側に海軍の航空隊があり、鏡が浦に多数の軍艦が来ていたことは知っていたが、実際の海軍の諸施設は、この館空だけでなく砲術学校、洲ノ崎航空隊など大掛かりなものであったことを、最近になって知った。周辺地域の砲台や特攻基地を合わせると、首都を守るために七万の将兵が、終戦時に動員されていたとのことである。
昭和二十年春というと、すでに制空権は米軍側に奪われ、連日のようにサイパン島からB-29の大編隊が飛来し、上空高く通過して東京や横浜方面に向かって行った。その銀翼の群れをきれいだなあと、眺めていた記憶がある。空襲警報が頻繁に鳴ったが、海から離れている生家周辺は、民家ばかりで比較的安穏であった。
それは寒い日の午前だったと憶えているが、いつもとは違って慌しく警報が鳴り、機銃音を響かせて低空を艦載機が家の方向へ襲って来た。一月末に妹が生まれて、空襲があればいつでも防空壕に連れて行けるように、柳行李の中に寝かされていた。しかしこのときは食糧営団勤務の父は不在で、安房高女の生徒だった姉も勤労動員でいなかった。
お産の後まだ日が経っておらず、臥せがちだった母は一人で赤子を連れ出すことができず、とっさに座卓の下に行李を押し込んで、私を促して防空壕に入るのがやっとであった。長男の私だけは助けようとしたのである。母に抱かれ、縋りついて機銃音が去ってゆくのを聞いていた。
空襲警報の解除を待ちきれずに、家に戻って行李を引き出すと、妹は顔をくしゃくしゃにして大きな声で泣いていた。この一連の出来事は今も鮮やかに憶えていて、忘れることはない。最近になってこの空襲の日は二月十六日だったことが分かった。 |
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